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問題 『心身の神癒』第八話の76節、最初の5文字は何ですか?
第八話 76節
(186ページ)
命という神の愛が、わたしたちを通して流れています。神の愛が、わたしたちの基礎となっている活動の力です。根底にあるこの力が、わたしたちの様々な意識を創っています。 神がすべての人を同じように愛されているからこそ、同じ命がわたしたちに宿っているのです。その命を自由に使うことができるようにと、神はわたしたちに自由意志を与えられました。 神は常に、わたしたちを愛し、生かし、活動の力を与えてくださっているのですが、何を思い、どう活動するかはわたしたちに委ねられています。 心に神の愛が豊富にあれば、命の流れ、つまり神の愛の流れは自然に外へと流れます。神の愛を知らずに、心に愛が欠如しているとき、わたしたちは外から愛を得ようとします。 わたしたちが個人を意識しているとき、つまり自我意識でいるとき、孤独を感じ、不安や恐怖を感じます。なぜでしょうか? それは、わたしたちの意識は、全体の意識から分離していなければ個人を表現することができないからです。自我意識そのものが全体から分離し、孤立した感覚なのです。 しかし、実際には誰も全体から分離していません。全体から分離した個人という感覚は、わたしたちが創り出している幻想に過ぎないのです。 わたしたちは、わたしたちの真実の姿である神を意識することによって、個人という意識を超えて、全体という神の意識を使うことができます。 神に心を開き、心の奥に流れる神の愛を意識することで、神の心、真実の心が現れます。その真実の心は、真心として知られていますが、真心が現れるとき、わたしたちは自然に神の愛を外へと流すことができるのです。 真心でいるとき、神の愛はいつも自然に現れます。誰もその愛に逆らうことはできません。すべては愛に従います。それがわたしたちの持っている力です。このように、すべてを愛し、癒す力をわたしたちは外へと放つことができるのです。
物質的な結果ではなく、自分の心に注目してください。物質的な感覚では「創造は形として現れたもの」と思ってしまいますが、わたしたちは意識によって様々な「思いを創造」しているのです。そして、わたしたちは形ではなく意識として存在しています。 過去のことを考えるのも、未来のことを考えるのも「今」ではないですか? わたしたちは「今」生きているのであって、過去や未来に生きているのではありません。 永遠に生きるということは、この瞬間の連続である永遠の「今」に生きるということです。それなら「今この一瞬一瞬の心」が大切ではないでしょうか。 「今の思い」の結果によって過去が創られ、また未来も「今の思い」によって創られます。永遠の幸せは「今」にしか創れません。
命は、宇宙全体を生かして活動させている力です。命そのものに個人という意識はありません。 そのため命は、一人ひとりの魂というものを造り、その魂から命を現すことによって個人を表現しています。 この世界で、わたしたちが活動するための意識は、魂から現れています。 それは主に、知性、感情、肉体という3つの意識です。 肉体の死を迎えても魂は存在し続けるため、命は同じ魂を通して、新たな知性、感情、肉体という3つの意識を創造し、再び地上に転生させることができるのです。 命は永遠に何も変わりません。魂は地上での活動を通して進化します。そのため転生の度に、魂の進化の度合いに合わせて、知性、感情、肉体も進化した表現をするようになります。 転生や魂についての詳しい説明はまたの機会にさせていただきますが、魂の仕組みは単純ではなく、物質世界に必要な意識を創り出している魂は、物質世界に転生する必要が無くなれば、その役目を終えて消滅します。しかし、命と活動する意識との接点としての魂(これを魂と呼ぶかは別として)は存在し続けるため、わたしたちは永遠の成長を続けることができるのです。
これを理解するには、創造についてを掘り下げて考えてみる必要があります。 例えば、自分が何かを創造するとすれば、まず、何かを「思う」はずです。そして、その思いを表現するために、体を使って何かを創造し始めます。つまり「思い」が、その「活動の力」となって創造をするのです。 自分自身の思いが「力」となって体を活動させるのと同じように、始めに神は、活動の意思をされ、その神の思いが、力、つまり生命エネルギーとなって、すべてを生かして活動させているのです。そのため、この神の思いが創造の力であり、すべてを活動させる命とも言えるのです。 自分の体も、命がなければ、維持することも、動かすこともできないことから分かるように、命が体を造り、生かしています。そして、この体を動かしているのは、自分という思いです。自分という思いが、自身の体を使って自分を表現しています。しかし、この自分という思いも、何かから創造された創造物だということに気づいている人はほとんどいません。それは何から創られているのでしょうか。 実は、わたしたちのこの思いも命によって創られています。全体とし存在する命が、一人ひとりの魂を造り、その魂を通して命を表現することで個人個人を創造しているのです。つまり、命が一人ひとりの思いを創り、個人個人を表現しています。命はすべてを造り、すべてを表現しているのですが、わたしたちは自分という思いによって、命を個人に限定してしまいます。そのため、わたしたちが『わたし』と言うとき、それは個人を指してしまうのです。 しかし、わたしたちの実体は、この全体という命と、魂を通して個人として現れている命が一つになったものです。魂は、神の思いと個人の思いを結ぶ接点なのですが、わたしたちの実体は、魂を超えた神の思いも含んでいるため、わたしたちの思いは、本来、個人の思いを超えて神の思いも表現することができるのです。 イエスは『わたしは命である』という思いによって、自身の魂を超えた神の思いを表現しました。 自分自身が命であることを本当に知っていれば、誰でも、その知力によって個人の思いを神の思いと同じにすることができます。 イエスは『わたしは命である』という思いによって、神の思いとなり、その思いが、すべてを生かし、すべてを活動させている命という力であるため、『造られたものはすべて、わたしを通して、わたしによって造られた』と語られたのです。 神の思いが、たとえ魂を通し、個人の思いを通したとしても、神の思いのまま現れているのが個人がキリストとなっている状態です。イエスは、イエスという個人を通して神の思いを表現したために、イエス・キリストと呼ばれています。 このようにイエスの言葉は神を代弁しているため、この『造られたもの』とは、目に見えるものも、見えるものを造り出している目に見えないものも含め、神から生じるすべてのすべてを指しています。 イエスが『わたし』と言うとき、それは命であり、全体としてある実体の自分を指しています。そして、一つの命がすべてを表現しているため『わたしと父は一つである』と言われるのです。
これはまた予想外の広範囲の質問ですね! まず「わたしは〜」と言ったとき「わたし」というのは自分という個人を指していますよね? 自分自身がキリストであることを本当に理解しているなら「わたし」と言ったとき、それはキリストを指していなければなりません。それができるようになるための道が自身のハートにあります。しかし、キリストになること、すべてを赦して愛すること、自我を放棄することを肉体感覚が、自我であるサタンが邪魔するでしょう。キリストは時代を超えていつもわたしたちのハートに存在しています。そのキリスト〜愛〜に想いをとどめてください。怒りや憎しみが込み上げてきたらこのように言いましょう。『サタンよ退け』(これは自我を後ろに下げて、キリスト〜愛〜を前に出すということです)。キリストは勝利します。